そろそろ年始年末?それどころじゃねぇよ!

30歳のシャイには認知症を患っている74歳の父がいる。

早朝、起床介助するために父の部屋に入ってシャイは絶句した。部屋中がうんこ祭りになっていたのだ。所かまわず排泄した後に便に触れてはベッドの上や布団、服などに擦りつける。

「便に触るなとあれほど言ったのに、何で言うこと聞かないの?」

泣き叫ぶ娘に気おくれすることなく、がみがみ言いながら娘を叩く老人。

シャイは泣きながら新しい寝具に取り換え、父を着替えさせた。そして汚れたものを片付けてから、父の身なりを整えて朝ご飯を食べさせた。

認知症を患ってから父は自力で身の回りのことをこなすことができなくなり、食事や排泄、服薬、洗顔、髭剃りなどの介助はシャイ一人の肩にかかっている。老人中心の生活に追われる日々がもう何年も続いていて、シャイは働くこともできず、遠出も控えている。

心身ともに疲れ果てて、実年齢よりもずっと老けて見える。

慌ただしい朝の時間を乗り切って部屋に戻ると、大便は便器でやりなさいと父に告げる。うんこしないと頭を横に振ってみせる父だったが、娘が背中を向けるや否や、またうんこをズボンに漏らした。

認知症にかかっていても実の父親だ。父を殴るわけにもいかず、シャイはひたすら自分の頬を平手打ちした。そして、とうとう切れてしまった。「着替えたばかりなのに、さっき汚れたものもまだ洗っていないのに、また汚しちゃうんだから。うんこの山に埋もれて抜け出せない。そのうちこんな生活に追い詰められて死んじゃうわ。」

物音を聞いたシャイの娘が外から駆けつけてきて母の涙を拭ってやった。

「お母さんが爺さんのようになってら、殺して。こんな惨めな生き方はしたくないわ。」かんかんになっている最中、つい娘に吐き捨てた。

夜は、夜中零時になってもなかなか寝ようとせず、ドアを叩くなどして騒ぐ父を落ち着かせて寝かせたら夜明けになっていた。そして、つかの間の眠りの後、彼女を待っているのはうんこまみれになっている部屋。

老人の症状は日が経つにつれて進行し、シャイの負担は増大する一方だ。ボケ状況が募り、ますます手のかかる介護に心が折れそうだという。

「死にたいと何度思ったことか。だが、肩にかかっている責任があるから踏みとどまった。」

腹が立ってもほっとくわけにはいかず、父のおしり周辺の汚れを取って着替えさせてからまた後片付けする。年の瀬が近づいてきているというのに、新年を迎える気持ちにもなれない。家中を排泄物まみれにならないようにするのが精いっぱい。このような生活がいつまで続くのか。息苦しい現状に囚われて抜け出せない。目の前が真っ暗で先が見えない。

「自力で身の回りのことができない長生きは、子供にとって先の見えない災難である。」

胸に刺さる言葉だ。

子供にとって親は心の拠り所そのものだ。かけがえのない存在であり、親には生きていてほしいと思うに決まっている。

しかし、身体の機能低下に加えて、知的障害もある老人の長きにわたる介護、二三年ぐらいは大丈夫だろう。五六年もなんとか続けられるかもしれない。しかし、果てしなく長い、ゴールの見えない道を歩み続けるのは容易ではないし、そこから来る辛さと苦しみは想像するに余りある。いくら老人がわがままで理不尽であろうが諦めるわけにはいかないし、家族の苦労を分かってくれなくても、寛容の精神を持って当たらななければならない。心の耐性が問われる。

2022年、81歳の男が79歳の妻を海に突き落として溺れ死なせた事件があった。男の妻は40年前に突然脳梗塞を引き起こし、半身不随になり、それからは日々の生活のあらゆる場面で支援が必要になった。

息子は二人とも世帯持ちで、迷惑をかけまいと、男は一人で妻を介護してきた。

「苦しすぎる。生きたくない。殺して。」妻は何度も夫に言った。そのたびに男は、ちゃんと生きて、余計なことは考えるなと妻を宥めた。

しかし、だんだん手に負えなくなり、限界を感じた。年を取るにつれ、妻を車いすから抱えることすらままならなくなった。息子たちには迷惑をかけたくない。周りから養護施設に預けることを勧められたが、半身不随になった老人が施設で適切な介護を受けられるとは思えないし、常に満員状態で費用も高いから、抵抗があったという。

そして、とうとう極端な行動に走ってしまった。介護施設に預けるぐらいなら殺してやった方がましだと思ったのだ。最初は縄で妻の首を絞めて殺そうとしたが、妻を苦しめずに一気に死なせるほどの体力を持ち合わせていないことに気づき、途中で止めた。

事件当日、81歳の老人は妻を連れて港の周りをぐるぐると回って夕暮れが近づくとやっと決心がついたのか、何十年も共にしてきた妻を海に突き落とした。叫び声とともに海に落ちる妻を最後まで見届けてから、老人は家に戻り、息子に電話した。「母さんを海に突き落とした。」後ほどの警察の取り調べに向かって老人は、「40年も介護して疲れた」と供述したそうだ。

その日までの40年間、老人は毎朝五時に起きて、食事の支度をし、洗濯や掃除と言った家事全般をこなし、妻のリハビリに付き合ってきた。二時間ごとにおむつを交換し、妻を寝返りさせる......40年間まとまった時間でぐっすり眠れた日がなかったという。

「介護殺人」と呼ばれるこのような事件で、「加害者」が殺したのは、自分が何年もの間心を尽くして介護してきた身内の人だ。決して根っからの悪人ではない。ただ、長きにわたる介護に疲れ果てて絶望のあまり極端に走ってしまったのだ。自分が先にこの世を去っていったら、取り残された相手のことが心配だからということもありうる。

4年でもなく40年間も一人で介護してきて、人生の半分を妻の介護に費やしてしまっている。並大抵の覚悟ではできない。その間の苦しみと絶望感は計り知れないもので、追い詰められて精神的に病んでしまっていてもおかしくない。ただ、何もかも一人で背負い込まないで、もっと早い段階で息子や周りの人たちと話し合って解決策を探っていれば、本人ももっと余裕のある人生を送ることができたかもしれない。

高齢化が加速している中、「高齢者が高齢者を介護する」現象はますます普遍的になり、そこから生まれる疲弊、不安、苦痛は、介護する側とされる側、どっちをも苦しませる。

訪問介護を利用するか施設に入ればいいじゃないかと思う人もいるだろうが、そう簡単な話ではない。

まず、大概の老人は自宅で老後を過ごしたがる。それに、身体機能障碍の老人が施設で適切なケアを受けられるかというとそうとも限らないし、費用も高い。

知り合いの中に、何年も寝たきり状態になっている父を持つ人がいる。自力で生活管理ができないうえに、ボケ状態になっていて、最初は家族と相談して、訪問介護を利用ことにした。しかし、ヘルパーさんを五六人ほど替えてみたものの、誰一人満足に介護してくれなかったという。仕事が適当で、父にご飯を食べさせなかったり、性格が悪くて、ちょっと気に食わないと怒鳴ったり、不器用でそもそも介護職が務まらなかったりして、仕方ないから、施設に入居させることにした。

そして、いくつかの施設を比較検討したうえで、よさそうな所を選び、父を入居させた。しかし、状況は芳しくなかった。父は元々胃の調子が悪く、口にできるものが限られているが、施設での食事は統一した献立給食となっており、個人の好みや状態に合わせるわけもなかった。更に、排泄の頻度を控えるために、食事の量が抑えられていて、食べ足りているかどうかも分かったもんじゃない。

施設は常に人手が足りない状態にある。そのため、呼び出しベルを鳴らしても職員がすぐ駆けつけない場合が多いらしくて、おむつに排泄してしまうことがよくある。部屋の中は年中異臭が漂っていて、職員は老人がズボンに漏らすことを防ぐために、トイレに行きくない時も、便器に座らせておく。

ある日、知り合いが施設を訪問したら、父が下半身を裸にしたまま便器に座っていて、しかもその状態がかなり続いていたらしく、足が冷え切っていた。トイレの前を人が行き来しているにもかかわらず、誰も父を構ってくれなかったと。心細そうに職員を待っている父を見て、それが多分父の日常なんだろうと思うと心が痛み、悲しくてたまらなかったという。

よくよく考えたら月々の施設の利用費用は知り合いの給料をも上回っていて、代金を払ってまで父をそんなひどい目に遭わせるぐらいなら家で介護した方がいいと思い、彼女は仕事を辞めて父の介護に専念した。食事や排泄の介助をし、洗濯などの後片付けに明け暮れる日々。老人は夜が更けると返って目が冴えるらしく、夜中に大騒ぎをしたり暴れたりする。その対応に追われて一晩中眠れず、心が折れそうだが、他にいい方法が見つからないという。

昔はどこの家庭にも多くの兄弟姉妹がいて、世帯分離しても近居することが多く、老人介護は子供が順番で面倒を見れば済む話だからそれぞれの家計への影響も少ない。それに引き換え、現代では一人や二人っ子が当たり前で、離れて暮らしていて、しかも各々が仕事を持っているし、働く時間が固定時間制になっているのが多い。家に介護の必要な老人がいれば確かに困る。自分の人生や仕事も大事だけど、親の命を見捨てるような真似もできない。どっちも捨てがたい。

単に「親孝行」という倫理道徳が問われる問題ではない。大概の人はまず罪悪感に耐えられない。親のどちらかが健康でいて片方がもう片方を介護する、あるいは運よく信頼できる訪問介護が見つかるならまだいい。じゃないと仕事を辞めて介護に専念するしかない。現に、多くの中年の人たちが生活に追われつつ体の不自由な親の面倒を見ている。

認知症は年齢を重ねるに連れて誰もがなりうる病気だそうだ。認知症に関しては、ニュースや他人から聞きかじった程度でしか知らない。物忘れが多く、新しいことを覚えられなくなり、迷子になったりする。食事や排泄などの身の回りのことにおいては手助けが必要で、人格が変わって暴言を吐いたり暴力を振るったりすることもあるらしい。便を認識できず食べ物と勘違いして口に運んだり、大切なものだと思い込んで包んで引き出しにしまうなどの行動も見られるそうだ。

自分なりにネットで検索もしてみた。なるほどと思うところがある一方で、疑問も湧いた。認知症の人は相手の言葉を理解することができるのだろうか、思考能力はあるのか、生き続けたいという意欲は?不安や怒りなどの感情はあるそうだが、喜びや幸せの気持ちは感じ取れるのか。

実際にかかってみないと分らないだろうが、身体機能障害のみならず、やがて症状が進んで自分が誰で何をしているのか分からなくなり、口に運ばれているのが食べものなのか便なのかも判断できない。何かをやりたいという意欲もなければ、幸福を味わえることさえできなくなる。そうすると、ただ命を伸ばすだけの延命でしかないはずだ。そんな状態になってまで本人は生き延びたいと思うものなのか?家族や周りの人はそれを望むだろうか?

「嫌われる勇気」の本を読んだことがある。人の価値について、誰かの役に立ててこそ、自らの価値を実感できると哲人は言っていた。それに対して、「生まれて間もない赤ん坊や介護なしでは生きていけない寝たきりになった老人や病人たちは、誰かの役に立っているとは思えないが、生きる価値すらないことになるのか」と疑問を呈する青年に哲人はこう言った。何をしたかではなく、「ここに存在している」というだけですでに他人の役に立っていて、価値があるのだと。ただ生きていただけで嬉しい、今日の命が繋がってくれただけで嬉しく感じるはずだと。

しかし、本当にそうなのか。

認知症になると、不安や怒りを感じるようになり、思い込みから被害妄想を生じることもあるそうだ。周りは常にサポートを工夫せねばならない。介護する側には優しさや寛大な心が求められる。しかし、言うは易し行うは難しで、言葉では何とでも言える。果たして何人がやってのけるのか。ついカッとなって怒鳴ったり冷たく当たったりする人の気持ちも分からなくもない。日々の介護に心身ともに疲弊して、患者の感情まで汲み取る余裕がないからであろう。

身体は疲れ果て、神経を尖らせて腫れ物に触るような扱いをしなければならない日々。完全に介護中心の生活になってしまい、自分の生活は維持できなくなった。そんな生活を強いられてなお、相手の存在を嬉しく思い、生きているだけで感謝できるだろうか。そもそも本人がそんな尊厳なき延命を望むとはとても思えない。

高齢化に伴う認知症患者数の増加は重大な社会課題の一つともいわれている。将来、私たちが老いに直面した時には、高齢化はもっと進んでおり、それに伴う問題はさらに大きく、より困難な状況が待ち受けているだろう。

しかし、ただ指を加えてその日が訪れることを待つのではなく、今からやれることをやる。

快適な老後生活に、まず健康な身体づくりは欠かせない。健康あっての人生だからな。何より認知症の予防にも繋がる。運動にいそしみ、栄養が偏らないようバランスの取れた食事に心がけ、本を読んだり学習を続けることで脳に活力を与える。

当然、老後のための貯金も大事だ。ただ、お金にガツガツし過ぎて無理して身体を壊してしまったら元も子もない。人生最後まで、自分らしく、尊厳を保って生きたいじゃない。

無断駐車車両を川に落とす「勇者」

自分の駐車スペースに見知らぬ車が止まっているって話、よく聞くよね。

林さんもその被害者の一人で、相手車の所有者に連絡して撤去をお願いしたが、連絡してから29時間経っても、相手は一向に姿を現れなかった。最初は風邪を引いているとか言い訳ぐらい作って見せたものの、そのうち電話にも出なくなり、とうとう姿をくらましたことに、林さんは激怒し、「人の駐車場に勝手に止めといて、撤去しろと言っても聞かないし、川に落としてやる」「オンボロ車ぐらい弁償できる」などと言いふらし、フォークリフトを呼んだ。てっきり口先だけかと思いきや、その場でフォークリフトの運転手に指示して車を川に投げ落としたそうだ。

車は翌日に引き上げられたが、ほぼ全体が水に浸かっていて、長時間の水没で廃車処分になりそうな状態だったらしい。姿をくらましていた持ち主はやっと現れ、自分の車が川に投げられているのを見るなり、すぐ警察に通報した。

林さんは「オンボロ車ぐらい弁償できる」などと豪語したが、単に賠償するだけで済む話ではない。器物損害行為は、損害賠償義務を負わされるのはもちろんのこと、その数・額によっては有期懲役にもなりかねない。

林さんは他人の器物を損害した罪で警察に連れ去られ、林さんから依頼を受けて車を川に投げたフォークリフトの運転手も取り調べに呼び出され、相応の罰を受けることになるらしい。

この事件はネット上で大騒ぎを起こし、林さんは「現地一番やばい車主」と囃し立てられた。林さんのやり方に対する意見は二手に分かれ、片方は、火種を作ったのは無断駐車行為であるものの、人の車を川に落とすのは妥当でないと、極端すぎると主張し、もう一方は、「よく投げてくれた!」「せいせいした」「ひどい奴め、ざまあみろだ」などと林さんを支持し快哉を叫んだ。林さんの行為は多くの人がやりたくてやれなかったことだからなのか、後者の方が明らかに大半を占めていた。

実際、多くの人が似たような場面に出くわし、気がふさぐような不快な思いをさせられている。

ある駐車場の所有者は、よく自分の駐車スペースに止まっている車に掛け軸をかけた。その掛け軸には「お前の目は節穴か」という文字が書かれていて、その一言にどれだけの不満と怒りが込められたものか。

せっかく金を払って駐車場を買い取ったのに場所を乗っ取られ自分の車は止められなくなった。腹を立てない人などいないだろう。

厚顔無恥の生きた見本は他にもある。アウディの車が地下の駐車場に2年間も埃を被ったまま止まっていたって話だ。

そのアウディの所有者は人の駐車スペースを占拠しておきながら、ふてぶてしくも、「俺をどうこうできるものならやってみろ」と駐車場の持ち主に電話で言い放ったそうだ。一方、その駐車場の持ち主もなかなかの癇癪持ちのようで、大きい錠を買ってきてはアウディをそのままロックして固定させたという。彼曰く「誰が先に頭を下げるのか、見てみようじゃないか」。そしてこの膠着状態は2年も続いた。その間、二人はずっと話し合い続けたものの、合意に達することはできなかったようだ。お互い一歩も譲らなかった結果、アウディは二度と地下駐車場から出されることなく埃まみれになり、もう片方は、また金を払って別のスペースを借りて駐車する始末。2年間意地を張って共倒れという結末になったのだ。

最初の林さんもそうだけど、腹が立って相手に目にもの見せたい気持ちは分からなくはないが、感情的になると、正常な判断力を失ってしまう。

現に、林さんと例の駐車場の持ち主は、一時の感情に流されて鬱憤を晴らした結果、みずから面倒ごとを引きつけてしまい、元々有利な立場にあったものを、過剰に反応し、極端な行動に走ったせいで、返って不利になってしまったのだ。

もっと冷静かつ有効的な解決策で自分の権益を守るべきだ。不適切な手段を取ると、一時の憂さ晴らしはできても、相手を戒めるところか、自分が苦汁を嘗めさせられることになる。
だったら、どうすればいいのか。

去年5月にも駐車スペースを巡るトラブルが発生したが、その持ち主であるレイはちゃんと法的手段で自分の権益を守って見せた。レイは、自分の駐車スペースがしょっちゅう占拠されていることに気づくと、まず管理会社を通して無断駐車した車の持ち主のヘイに連絡して事情を話した。そして、「一時間ごと占有料50元」と書き入れた警告の文書をその車に張った。しかし、それを見たヘイはあろうことか、屑などという侮辱めいた言葉が書かれた張り紙をレイの車に張ったのだ。その一連の行動が監視カメラにぱっちり記録されていることにも気づかずにだ。レイはその証拠を元にヘイと管理会社を裁判に持ち掛けた。調停により、ヘイはレイに謝罪し、管理会社も駐車場への管理を強化すると約束した。駐車場の監視システムを更新し、今後このようなクレームを受けた際には即時対応すると約束するとともに、レイの駐車料金を減免してやると言い出した。

痛快な結末であり、大いに留飲が下がる思いだ。

ただ、王に対する罰が軽すぎる。謝って済むなんて本人にとっては痛くも痒くもないはずだ。なにより、人の場所を乗っ取ってなお、逆切れするそのふてぶてしさ、謝罪も本心からではないだろう。

法的手段で相手を罰し、自分の適法な権益を守る。得策ではあるが、手間暇がかかりすぎて、多くの人がややこしくてそこまでしようと思わない。

一番有効的な解決策は、関連機関がもっと十全かつ強硬な措置を講じることだ。

国によって異なる点もあるだろうが、まず車の持ち主を特定し、持ち主の特定ができたら駐車場の明け渡し請求を行う。そして持ち主から回答がなかったり相手との交渉がうまく行かなかった場合、管理会社や警察に介入してもらうか民事訴訟に持ち込むというのが一般的なやり方だろう。

しかし、時間はかかるし、すぐ駐車できない焦燥感に駆られるのはもちろんのこと、運悪く筋の悪い悪質な無断駐車にでも出くわしたら交渉が長引いてその間受ける精神的ストレスも半場ではない。さらに張り紙で警告したはいいが、自動車に傷やテープ痕を残したらそれを逆手に文句を付けてくるなど、対処方法を誤ったら返って不法行為を問われ不利になりかねない。一方無断駐車した側は、どう転んでも損はない。知らぬ存ぜぬを通し、用が済んだら車を移動するだけでいい。最悪の場合、裁判に持ち込まれたとしても、損害賠償を追求されるわけでもないから痛痒を感じない。

他人の利益を侵害しても罰せられない。無料駐車もできて謝って済むからお得。だから少しだけと思い平気で無断駐車する人が後を絶たないのだ。

台北では、駐車スペースが他人に占拠されたり、あるいは違法駐車されたりする場合、すぐ業者に連絡して車両の撤去を委託することができるらしい。車はレッカーで指定の保管場所に移動され、引き取る際には、車の撤去費用と保管費用を払わされる。

少々乱暴ではあるが、有効的なやり方だ。無断駐車しようとする輩は二の足を踏まざるを得ないし、被害に遭われたとしても、相手の態度に振り回されることなく電話一本で済ませられる。

このような経験はちゃんと活かしてほしい。不埒な行為は根元から断ち切らなければならない。

そもそも、これほど被害が出ているのに、もっと有効的な対策を練ろうとしないのが不思議だ。民の安心・安全な暮らしを守り抜くのが政府最大の責務だろうが。大事件には手も足も出ない。このような些細な事件はたらいまわしをするばかりで、動こうとしない。

ペーパードライバー歴十年の私は、生涯ペーパードライバーを貫くと改めて決心する。

トラに噛みつかれたあげく、母をも死なせた愚かな女

その日、近距離で野生動物を観覧できる野生動物園を訪れたz一家は列を並び、入場券窓口から入園チケットともに告知書のようなものを受け取った。その告知書には、「下車禁止」「車の窓から頭と手を出してはいけない」などと、六つの禁止事項が書かれてあったが、zはろくに内容に目を通さずにサインした。てっきり車両入園登録かなにかと勘違いしていたという。

自宅から動物園までの道のりをずっと一人で運転していてさすがに疲れて、入園する前、夫にハンドルを握らせてzは助手席に座った。しかし、夫の運転が下手であることもあり、発進したり止まったりする中、zは軽い車酔いを起こしてしまった。そして車が猛獣エリアに入って間もなく、車酔いで気持ちがますます悪くなり、とうとう我慢できなくなったzは自分が運転すると言い出した。そうした方が気持ちが楽になるだろうと思ったからだ。そして夫に車を止めさせて、周りに警告板がないことを確かめると、安全エリアにいると思って車から降りた。たった数秒の行動が悲惨な事態を招くとも知らずに。

後ろからパトロールがスピーカーを鳴らして、大声で車に戻ることを促し、近くにいるほかの観覧客も車のクラクションで危険を知らせたが、それを自分の車が邪魔になっていたからだと思い、速足で運転席の扉まで移動した。zが運転席のドアを開けたその瞬間だった。突然背後から寒気を感じて振り向くと、目の前でトラが大きく口を開いていて、そのまま嚙みつかれて引きずられていってしまった。まさに一瞬のできごとだった。

zは大声で助けを求めた。しかし、その叫び声はもう一匹のトラを引き付けてしまい、背中や右の顔を噛みちぎられて気絶してしまった。

トロールはすぐ他のパトロールに支援を求め、頻りにクラクションを鳴らしながらトラを追いやろうとした。zの夫と母も車から降りてトラの後を追いかけた。母は娘のそばに駆け付けると、トラの頭部を殴った。しかし、現れた3匹目のトラに首を噛みつかれ、大量の血を流して動かなくなった。それを見た夫はパトロールカーに助けを求めた。てっきり突発事態に対応できる救助隊員が常に待ち構えていると思っていたが、パトロールカーには運転手一人しかおらず、しかも救助経験もなければ、麻酔銃や警棒らしき救助設備も持ち合わせていなかった......

z親子がトラに噛みつかれて6分ほど経って、飼育員はやっと現場に現れ、トラは二台のパトロールカーが鳴らすクラクションに威嚇されながら檻に追いやられた。二人はさらに10分後に到着した救助隊員によって病院に運ばれたが、母の方はすでに息を引き取っていて、zは一命をとりとめたものの、右の顔から頸部にかけて20センチ以上の開放性の裂傷を負い、歯が2本折れて、顔面神経損傷により咀嚼機能に影響を及ぼし、顔に金属のプレートとボルトを入れられた。背中、脊椎、胸部、腰や尻など、体の数箇所に大小さまざまな外傷を負っていた。

のちに発表された政府の調査報告で、事故発生の主な原因として、zが下車厳禁の規定を守らずに、園内管理人と他の観光客の警告を無視して車から降りたこと。母も娘を助けたい一心で車から降りたとはいえ、やはりルールを守らずに不適切な救助行為に走ったこと。この2点が挙げられた。そして、z親子の死傷事故は、生産安全責任事故とは言えず、動物園側に責任はないとの判断が出された。

その調査結果にzは納得できず、主な責任は自分にあることを認める一方で、動物園に全く責任がないとは言い切れないと不満を表した。当時自分がトラに襲われた区域に目立った警告板がなく、道路の路線も下車が可能な休息所と似ていて、トラのいるエリアから離れていると判断して車を降りたのだと、しかも園内のパトロールに救助経験がなく、事件が起きた時にいち早く車から降りて救助できなかったため、救助の最適な時期を逃したと主張した。そして、葬儀費用、死亡賠償金、精神的損害に対する賠償金など合わせて154万余りを動物園側に請求した。

一方動物園は、猛獣エリアでは、従業員とて車から降りたら命の危険に晒されかねないため、従業員を含めたすべての人の下車が禁止されているとコメントし、政府の調査報告にも書かれてあるように、動物園に責任はなく、損害賠償の請求は認められないと反論した。

ここ数年、「規則を守る」「人間は猛獣の野生を侮ってはいけない」などというキーワードがトレンドワードランキングに頻繁に上がっている。にもかかわらず、観光客に限らず従業員の不用心による似たような動物園死傷事件が多発している。

2017年1月、一人の観光客が動物園のトラをからかい、噛みつかれて死亡。2021年5月、園内の飼育員が通常業務を行う際に、ルールに反した操作をして、トラに襲われて治療不能で死亡。

2021年5月、また別の動物園で、飼育員の誤った操作で、二匹のトラが檻から脱出し、一人の飼育員が噛みつかれて死亡。

......

zが動物園でトラに噛みつかれる動画はのちにネット上で広まり、波紋を起こした。「お前が自分の母を殺したんだ」「同情の余地が全くない、どんなことがあっても車を降りる理由にはならない」「あばずれ女が喧嘩して車を降りた」などと誰もが彼女を罵り厳しく非難した。

後ほど行われた裁判で、主な責任はzにあり、すべての責任はz自身で取るべきだと、動物園側に非はなく、賠償する必要はないとの判決が下された。その結末にネット中が拍手喝采を送った。

自ら墓穴を掘ったのだから自業自得だし、同情に値しない。さらに母まで巻き込んでしまったのだから余計腹が立つ。一言罵声を浴びせたくなる気持ちも分からなくはない。

ただし、この事件でzは加害者でありながら被害者でもある。

父には許されず、退院後、顔に長い醜い傷跡が残っているため、出かけるときは必ずマスクをつけていて、周りから冷たい視線を浴びせられる始末。さらに「ルールを守らない人間」というレッテルを張られ、元の仕事を失っただけでなく、どこも彼女を雇ってくれないらしい。

何よりこれから先zは、悔いと自責の念に苛まされながら母を死なせたという重い十字架を一生背負って生きていかねばならない。そしてうずく傷跡は、己の愚かさを来る日も来る日も思い起こさせてくれるだろう。

父は、妻の死を招いた張本人である娘が許せなくて、娘のそばにいることを拒否して実家に戻ったという。娘と顔を合わせるのが辛いんだろう。しかし、だからと言って実の娘の不幸を望んではいないはずだ。

たとえ被害者の立場から娘に何らかの償いを求めるとするならば、それはきっと、ちゃんと反省して妻として孫の母としてその役割を果たし、母の代わりにしっかり生きて行くことに違いない。

zと彼女の家族は十分悲惨な代償を払った。

もしzが、世間から寄せられる悪意と非難に耐えられず、精神疾患を起こしたり死んでしまったりしたら、それこそこの家族にさらなる打撃を与えてしまう。

それにしても、人間は自分の身に災いが降りかからないとなかなか危機感が持てないのだろうか。血であがなった教訓も人間の警戒心を呼び起こすことはできないらしい。

尤もらしいことを言っているが、私自身、よく車が往来する道路を隙を見て横断したりする。何かにつけてまぐれを期待するのは人間の腐った根性ともいうべきだろうか。

子供は何をしても許されるべきなのか

生徒の保護者に2万円の支払いを要求され、それを拒否して自殺した40代の男性教師がいた。

授業の最中に、一人の男子生徒と隣の席の女子生徒が鉛筆を巡って喧嘩したのが事の発端だった。男子生徒は護身術を学んだこともあり、力を頼んで女子生徒を殴って泣かせ、それを見かけた教師は二人を引き離し、女の子に手を挙げたことを窘めては謝るように男子生徒を促した。教師が女子生徒の肩を持ったとでも思ったのだろう、男子生徒は不服そうに拳で教師の胸を強く打った。その衝撃で教師はのけぞり、あとずさりした。同じクラスの女の子を殴って泣かせた上に、教師にまで手を挙げることに、教師の堪忍袋の緒が切れ、興奮気味の男子生徒を抑えて厳しく叱責し、自分の席に戻らせた。

授業は引き続き行われたが、全く反省する様子もなく、一向に構わず平気な顔をして両足を机の上に載せて見せる男子生徒。これ以上授業の時間を無駄にしてはいけないと思った男性教師はそれを無視することにした。

ところが、教師のことを根に持った男子生徒は家に帰ると、昼間学校であったことを尾鰭を付けて家族に話した。男子生徒の話からすると、是非を問わない、何かにつけては学生に強く当たる悪い教師なのだと。そして自分の肩にある赤い痣は教師に討たれたものだと嘘をついた。それに何の疑問も持たずに、学校に出向いては説明を求め、挙句の果てには衆人環視の中で泣きわめく男子生徒の保護者に、男性教師は説明するものの、保護者はそれに耳を傾けようとせず、うちの子が嘘をつくはずがないと、体の傷がその証拠だと言い張る一方だった。その後、男子生徒の保護者は病院へ行って子供に検査を受けさせ、子供の体に外傷があることを証明できる証明書を申請した。しかし、各検査項目の指標は正常範囲にあり、体に異常はないという結果が出され、病院側がその要求に応じることはなかった。再び学校に戻った男子生徒の家族は、一連の検査にかかった2万円ほどの検査費用を男性教師に支払いを求め、クラス全員の前で自分の子供に謝ることを強要した。

いわれもなく悶着を起こす男子生徒の保護者に絶句し、世界観までもが崩壊してしまいそうになった男性教師は警察に通報した。事の一部始終を聞かされた警察は男性教師の側に非がないと判断し、事を荒立てることなく和解を勧めた。しかし、男子生徒の保護者は引き下がろうとしなかったし、当然教師も妥協しようとせず検査費用の支払いを拒んだ。それに応じることは、相手の言い分を認めるのと同じで、自分がやってもいないことで責任を取ることを意味するからだ。そして自分の教職生涯に拭いきれない汚点を残すことになる。

その後、男子生徒の保護者は政府機関や教育委員会に訴えはじめ、騒ぎ立てることで教師と学校側に圧力を加えた。

あらゆるプレッシャーに押しつぶされて男性教師はとうとう水中に身を投げて自殺した。教師としての尊厳や名誉を守るために、死んでも謝らないと死をもって自分の潔白を訴えたのだ。

やってもいないことで責められ、自分に非がないのに周囲の声に押されて頭を下げねばならない状況に、怒りを覚えただろう。自分の潔白を証明することのできない無力感に苛まれ、悔しく思ったに違いない。

こんな記事を読むたびにいつも思う。その人の状況や立場に立った時に、自分だったらどうするのかと。もちろん死んだりはしない。死んだことで、男子生徒とその家族は世間から強い風当たりを受けることになるだろう。しかし、それもほんのわずかの間だけで、人々の視線はすぐ別の場所に引き付けられ、一人の教師の死など、あっという間に忘れられてしまう。一方、男子生徒の方は、引っ越すなり転校するなりで騒ぎから身を引く方法などいくらでもある。当然、底意地の悪い悪魔のような子供と横暴理不尽でふてぶてしいその家族が良心の呵責に苛まれるはずもなく、それを期待するだけ無駄。結局、教師の死はさざ波が立った程度の役割しか果たせず、家族や身内の人を悲しませるだけだ。

どうせ死ぬなら、死ぬことも怖くないなら、それほどの勇気があるのなら、一か八か自分自身のために戦ってみろよ。そんな一人の教師の尊厳も守ってくれない学校なんて思いっきり止めちまえばいいじゃない!法的手段でどうすることもできないなら世論を動かしてその一家を社会的に葬ってしまえ!

人を雇って男子生徒の家やその家族の職場の周りで大騒ぎを起こしてやるのだ。その子が学校で同級生だけでなく教師にまで手を上げたこと。子供が家族に噓をついたこと。それを保護者が鵜吞みにして何の根拠も証拠もなく学校で騒いだ挙句教師を退職に至らしめたこと。いわば目には目を歯には歯をというやつだ。

ネットに晒して事実を公にすることで社会的制裁を受けさせることもできる。男子生徒の名前にわざと触れる必要はない。教師自身の名前とどこの学校でどのクラスかを言及するだけで十分だ。今時のネット民は賢い。それだけの情報があれば男子生徒の本名やその家族の情報を割り出すのにそう時間はかからないだろう。

事と次第によっては、男子生徒のこれからの進学先や就職先、彼の彼女もしくは結婚相手とその家族にまでその卑劣な過去を知らしめる。

子供相手にやりすぎなんじゃないかと、そう思う人もいるだろう。

確かに子供は心身共に未熟で、事の良しあしを見分ける能力が不十分だし、善悪の区別もまだはっきりついていない。しかし、程度の多寡はあるにしても、それは大人も同じだ。完璧な人間なんて存在しないし、人はどの年齢段階においても完全体とは言えない。後になって過去を振り返っては、あの時そうするんじゃなかった、もっとこうすべきだったと自分の行為を悔いたり反省したりする。人は自分のやったことに対して責任を取らなければならない。それは子供とて例外ではないはずだ。

この記事を読んだほかの教師たちはどんなふうに思うだろう。これからは学生の成績を上げることだけに力を入れ、それ以外のことに首を突っ込むのはやめよう。親身になって学生のことを思ったところで、学校が給料を上げてくれるはずもなく、保護者達に感謝されるわけでもない。当たり前だと思うだろうし、逆に学生の身に何かあったら批判の矛先は真っ先に自分ら教師に向けられる。運悪く非常識で理不尽な保護者に絡まれたらそれこそ教師生命をも絶たれかねない。面倒ごとに巻き込まれるのを恐れて介入することに二の足を踏むのではないか。学生に対する関心はどんどん薄れていき、そして本当に助けが必要な生徒にまで目を背けてしまう。

大人、しかも自分の教師に暴力を振るってなお、それに悪びれることなく事実を捻じ曲げて親に言いつけるその行為から男子生徒の悪賢い性格の一面を窺い知ることができる。単なるガキの悪ふざけで片づけられるようなことじゃない。

何もかも子供だからと、子供相手にムキになるなと。そういう人たちの呑気な態度や怠慢が学校いじめをエスカレートさせているし、少年犯罪の増加・凶悪化を招いている。

十歳の女の子が男児を25階から突き落とした事件があった。事件当日、一階に向かうエレベーターにはベビーカーに乗ってくれない男児とその子のおばあさん、例の女の子三人が乗っていた。エレベーターが1階で止まると、おばあさんはまずべビーカーを外に出したが、おばあさんが再びエレベーターに乗る前に扉が閉まってしまった。女の子と男児二人だけが取り残されたエレベーターの中で、男児は女の子に向かっていたずらっぽくあかんべえをした。家で母に手ひどく罵られて鬱憤が溜まっていたところ、女の子はそれをぶちまけてやるとばかりに男児の頬に何回も平手打ちをくらわし、狂気じみたように足で男児の腹や頭を蹴り続けた。そして25階に上っては男児を窓辺まで引きずり、泣きわめく男児にざまあみろと吐き捨て、25階の窓から突き落としたのだ。そして鼻歌を歌いながら何事もなかったように自分の家に戻ったという。その一部始終がエレベーターの監視カメラにぱっちり記録されていた。

七歳の女の子が同じ村の年下の男の子を井戸に突き落とす事件の画像がネットに流れていた。十数秒の画像の中で、女の子は男の子を抱えて井戸に投げ捨てた。男の子が泣きわめきながら井戸の入り口に縋りつくが、それを女の子が力ずくで無理やりはがして突き落とした。

当然、二人とも大した罪には問われなかった。相手が未成年者というだけで被害者家族は泣き寝入りするしかなかったのだ。

大人でもよほどのことがない限りこんな大それたことをやらかそうだなんてなかなか思いつかない。法に触れることを恐れてではなく、やっちゃいけないということを本能的に分かっていて、強い抵抗感を持っているからだ。

このような子供は性根から腐っている。後でどんな矯正教育を施そうが、更生なんて無理だ。

子供は宝であり国の未来だと?笑わせるな!こんな性根の悪い子供に国の未来を託せるか!社会に出たところで屑になるだけだ。

もちろん子供を大人と全く同じ扱いしろとまでは言わない。しかし、二度とこんなことを起こさせないためにはどうすべきか。何らかの対策を講じねばならない。ニュースで大々的に報道したところで、未成年者は何をしてもいいし、罪に問われないという犯罪意識を助長するだけだ。やはり厳罰化が一番有効のように思えてならない。

厳罰化は必要ないと主張する人がいるらしいが、それは他人事だから言えることであって、もし自分の身内だったら、子供は未熟だの、子供相手にムキになってはいけないだのと、聖人君子を気取ってきれいごとばかり並べられるはずがない。

少年非行の厳罰化は、少年犯罪の再犯の防止に繋がるのは言うまでもない。少年だから何をしてもいいというわけではないと、それ相応の罰を受けることになると思い知らせてやるのだ。

未成年者は犯罪を起こしても罪に問われることはない。これが知らず知らずのうちに保護者達の教育の怠慢を招いているのではないか。

責任の一端を担う保護者には損害賠償のほかに、子供が児童自立支援施設・少年院などに収容される間、矯正教育費として一定の費用を出させる。そして余暇の時に施設で何らかの形で手伝わせてもらう。

これは家庭教育の在り方に警鐘を鳴らしてくれるだろう。

子供は家畜じゃあるまいし、ただ飯を食わすだけでいいものではない。ましてや、何かあるたびに怒鳴りつけ、他の子と比べたり、暴力を振るうなどして、子供が健康な人格を形成できるはずがない。

愛情を降り注ぎ、子供とちゃんとコミュニケーションを取り、もっと自分の子供のことを分かってあげる。そんな中でこそ、子供は心身ともに健やかに育ってくれるし、何があった時に、親に心を開いて、信頼して相談を持ちかけることができる。

「あなたは職場に向いていない、感情がすぐ顔に出ているもの。」

「あなたは職場に向いていない、感情がすぐ顔に出ているもの。」

十年前、勤めていた会社の上司と喧嘩して、勢いで会社を辞めた時に友達がそう言ってくれた。
「お前のような中国人は見たことがない。」「あなたのような韓国人も、私は初めて見ました。」上司相手に一歩も引かない私は、すぐ感情的になってしまうのが玉に瑕だ。

新卒してすぐ入った職場の部長を含めてどうやら私は上司には恵まれないらしい。
「そんなことは自分で判断してやりな。細かいことにまでいちいち気を配れるほど部長は暇じゃないぞ。」
......
「何で報告しなかった?」「このような些細なことは自分で判断しろと前に部長に言われまして......」「じゃ、お前は俺が死ねと言えば死ぬのか」
その時の部長のふてぶてしい顔を今でもありありと思い出せる。

今は、在宅勤務しているけど、その社長がまた奇抜な性格の持ち主で、せっかくプライベートの時間を割いてまでいろいろ情報を集めてきたのに、「出過ぎた真似はするな。」「言われたことだけをやりなさい。何でどいつもこいつも言うことを聞かないのかなぁ」と呆れたような口ぶりで言われる始末。
アルバイトで残業代も払ってくれないくせに、勤務時間外に仕事のやり方を教えてやると、その恩着せがましい言い草にも流石に絶句したものだった。もちろん、それは勘弁してほしいときっぱり断わってやった。
分からないことがあったら素直に聞きなさいとか言っておきながら、抜け漏れがないよう再確認を求めると、仕事を始めて日が浅い(十日目)私に、一度教えたことはちゃんと覚えなさい、もっと完璧にやってくれないかなぁと無茶を言う。「自分は最善を尽くしたつもりなんですけど、社長の期待に沿えなかったということは、やはり自分の能力不足が原因かと」つい皮肉めいて言い返してやったのだ。

私の履歴書を見て、結構職場を転々としているわねという人も少ながらずいる。本当は変化を好まない性分なのにだ。
辞めた後は後悔しないようにしているし、引きずったこともなかった。ただ、昨年辞めた日系会社のことは今でも残念に思えてならない。給料が惜しかったからではない。むしろ世間の相場に比べて低い方だった。ただ単に、日本語が大好きだったため、せっかく手に入った通訳の仕事が楽しかったからだ。会社側に給料の相談を持ち掛けた時、自分のことを高く評価し、引き留めてくれたことは本当に嬉しかった。結果はどうであれ、働き続けようと思った。それがどういうわけか、向こう側の態度が最後の最後で一変した。「給料は少し上げてやる」「己惚れるな」「地に足をつけるように働け」。手のひら返しのような態度に面食らい、やり切れない気持ちに駆られ、つい辞めてしまった。

己の本当の気持ちを押し殺してまでやり続けるべきだったのか、それともちっぽけなプライドを守って「格好よく」辞めたのが正解だったのか、正直分からない。
年のこともあってか、日本語関連仕事に執着して履歴書を出しても相手にされないことが多く、面接の機会なんて指で数えられるほど少ない去る一年間。日本語に関する仕事を見つかるのはもう無理かもしれないと思うと、自分の生き方に拘ってきたことに動揺が生じはじめた。

職場に向いていないと言ってくれた友達の言い分にも一理あるかもしれない。
相手との関係が壊れることを恐れて、その人の気持ちを害したくないがために、無理に合わせようとしない、妥協しない、我慢することなくきっぱり断わる。そういった自分の性格にも関係しているように思えなくもない。

年を取るにつれ、だいぶ落ち着いてはいるものの、40になった今でも後先考えずに行動する自分に呆れる一方で、人に選ばれざるを得ない自分が情けないし、悔しい。

自殺する度胸はないが、人は殺せる

20代前半の男がマンションの高層階からレンガを投げ落として無差別殺人を図った末に無関係の女性を死に至らしめた。十数歳で学校を途中で止めたその男は、真面な仕事も見つからず、当然碌な稼ぎもないまま親からの仕送りでなんとか生活を維持してきたという。

事件が発生した数日前、男はなけなしの金を全部引き出して、家から離れた地方に飛行機で飛んでいき、1日単位で借りられるマンションに入居した。わずかな所持金を全部使い切ってしまうと、生きていけないと思った彼は、飛び降り自殺に思い至ったが、飛び降りる勇気がなく自分がいる30階から物を投げ落として人を殺し、死刑判決を受け、安楽死するという非常に間抜けで突飛な死に方を思いついた。

こうして男の無差別殺人計画は実施され、自分がいる30階のベランダから重いものを落としはじめた。最初の被害者は階下の屋台主で、死んではいないものの、肩や指、足など数箇所にわたる大けがを負ってしまった。その後、男が投げ落とした三本の缶コーラのうち一本が通りかかった女性の頭に弾んで落ち、幸い大事にはならなくて済んだようだ。二人とも被害を受けてから被害届を出していた。通報を受けて現場に駆けつけてきた警察が一応捜索したらしいが、犯人を見つかることはできなかったという。

死者が出るまで、犯行を諦める気にはなれなかったのだろう。数日後、男はまたレンガやら飲料水の瓶やらを落とし始めた。そしてとうとう死者を出してしまった。

事件当日の夜10時ごろ、夜中に小腹がすいて夜食を買いに出かけた20代後半の女性が運悪く男が投げ落としたレンガに当たり、病院に運ばれる途中で死亡したのだ。

卑怯極まりない男は自分の計画が達成したことを確認すると、警察署へ出頭して自首したという。そして後日の判決で死刑を言い渡された。

当然の結果ではある。だが、あまりすっきりした気分にはなれない。結局男の思惑通りになったわけだから。

確かに外部の人たちには知りえない事情というものが警察の内部にはあったのかもしれない。しかし、通報を受けた時点で、もっと真剣かつ入念に捜査に取り掛かっていれば悲劇は回避できたのではないか、そんなふうに思えてならない。もし最後に、男が自首しなかったら未解決事件という形で終わらせるつもりだったのか。そう警察に詰め寄ると、たとえ男が自首しなかったとしても全力を尽くして事件を解決すると言うだろう。それじゃ、どうして最初からそうしなかったのか。

そもそも被害届が二回も出されている時点でこれはもう偶然ではなく故意による悪質な犯罪行為と判断してやがて死者が出る恐れもあると捜査員の人数を増やして真剣に捜査に取り掛かるべきだったのだ。向かいの建物にカメラを設置するとか周囲に見張りをつけておくとか、やれることはいくらでもあったはずだ。落下物に付着している指紋を採取して指紋照合するという手もある。男は計十数回にもわたって物を落としていて、落ちた場所もある程度は限られている。それだけの数の凶器があればそこから同一人物のものと思われる指紋は容易に検出できたはずだ。その指紋は犯人のものと見てほぼ間違いないだろう。そして例のマンションに住んでいる人たちの指紋を採取して指紋照合を行う。上の階数から潰していけば案外手間暇かからずに犯人を割り出せたかもしれない。ましてやこれは事前に綿密な計画を立てて入念な準備をして行われたものではなく、突発的に及んだ犯行に過ぎない。犯人の弱みに付け入る隙は多々あったはずだ。更に警察が出動して大騒動になれば己の命を自ら絶つことさえもできない気の弱い男ならすぐ犯行を思いとどまった可能性も十分ある。当時通報を受けて行われた捜査が中途半端にうやむやに終わったせいでこんな結末になったんだ。警察の怠慢と無能さが招いた悲劇といえよう。

元々警察なんて税金を食い荒らすだけの税金泥棒であって、あてにならないと思っていたし信用もしていない。それが今回のことで警察に対する不信感は更に高まった。

事件後、加害者の過去の精神鑑定らしきものがその家族から提出されたらしい。しかしそれは、警察側の再検定により、事件当時の男の精神状態に異常はなく、完全責任能力ありと認定され、精神障害の主張は見事覆されたという。

犯行当時、加害者は23歳で、もう立派な大人であり、自分の行動にちゃんと責任を持てる年である。未成年ならともかく、本来ならば加害者家族までもが非難を受けるべきではない。ただでさえ自分の家族が事件を犯したというショックは大きい。更に止めてやれなかった自責の念、追い打ちをかける社会からのバッシング…被害者家族だけでなく、加害者家族もまた、生き地獄を強いられたであろうことは想像に難くない。そういう意味では加害者家族も被害者である。しかし、それはあくまで事件から目をそらすことなくちゃんと向き合おうとする人に限ってのことだ。

加害者家族がどういう心境で精神鑑定を提出したのか分からない。精神障害を偽装してまで罪から逃れさせてやるのが男のためと思ったのか、それともただ加害者家族というレッテルを貼られるのがいやだったのか、その重荷を背負わたくないがための行動なのか。理由はどうであれ、謝罪はおろか、精神的に疾患があると主張することで罪から逃れようとするような行為は、その目論見こそ見事打ち砕かれたものの、実に厚顔無恥で卑怯極まりない。

そんな家庭で育った人が真面なわけもなく、非常識になるのも頷ける。この親にしてこの子ありとはよく言ったものだ。

その先、厳しい社会的制裁が待ち受けているだろうことは想像に難くない。

殺された女性は28歳。法科大学院修了後、ある国営企業で法務の仕事をしていたらしい。10歳年上の姉が一人、付き合っている彼氏とは来年結婚する予定だったそうだ。

今回の判決は、現在の法律の範囲内では妥当なものかもしれない。死刑、つまり加害者の命を持って被害者の命を償う。しかし、命は平等だとかよく言うけれども、ちゃんと働いて立派に社会貢献する人と、大の大人になってもなお働きもせず親の脛をかじり、人の命を軽んじるような人の命に同等の価値があると言えるのだろうか。

第一、男は人一人の命を奪っただけではない。残された被害者遺族に大きな喪失感を与え、心にぽっかり穴を空いてしまった。そして行き場のない悲しみと怒りで、その穴は延々と埋まることがないかもしれない。

更に、世の中には社会に溶け込めず、孤立や不満、更に憎しみを感じる人が少なからずいる。どうせ死ぬなら自らの手で命を絶つことなく、他人を道連れにして社会に復讐してやろうと思うような模倣犯が出てこないとも限らない。

仮にお金を借りたとしても返す時にはちゃんと利息をつけねばならない。人の命は金銭で換算できるものではないが、これらすべての罪が、畜生にも劣る奴一人の命によって償いきれるわけがない。

これはあくまでも可能性の話だが、懲役プラス死刑というのもありなんじゃないのか。これほど悪質な犯罪を犯すような人間が自分の行為を反省するとはとても思えないが、少なくとも安楽死できると思い込んでいたことがいかに愚かで甘かったのかを思い知らされることはできる。そして懲役を終えた先に待ち構えているのは釈放ではなく死であるという絶望の闇の中でもがき苦しみながらやがて処刑される。

この結末なら遺族の方ももっと前向きな気持ちで受け止めることができるのではないか。そして一日も早く苦痛から解放されることも、社会への信頼回復も期待できる。更に「安易」な死を求めて似たような考えを持つ人を二度と出さないための示しにもなる。

人生を生きていく上で、どんなに真面目に頑張っても努力が報われないことも、運が物を言う時だってある。しかし、自分が不幸だからと言って無関係の人を巻き込んでいいはずがない。それが他人を傷つける理由にはなれない。

軟弱で甲斐性がなくても、無知無能であったってかまわない。誰かの役に立て、社会貢献しろとまでは言わない。だがせめて、他人に迷惑をかけることだけは止めよう。それは人として最低限守らねばならないもので、ましてや人の命を奪うなど言語道断だ。