そろそろ年始年末?それどころじゃねぇよ!

30歳のシャイには認知症を患っている74歳の父がいる。

早朝、起床介助するために父の部屋に入ってシャイは絶句した。部屋中がうんこ祭りになっていたのだ。所かまわず排泄した後に便に触れてはベッドの上や布団、服などに擦りつける。

「便に触るなとあれほど言ったのに、何で言うこと聞かないの?」

泣き叫ぶ娘に気おくれすることなく、がみがみ言いながら娘を叩く老人。

シャイは泣きながら新しい寝具に取り換え、父を着替えさせた。そして汚れたものを片付けてから、父の身なりを整えて朝ご飯を食べさせた。

認知症を患ってから父は自力で身の回りのことをこなすことができなくなり、食事や排泄、服薬、洗顔、髭剃りなどの介助はシャイ一人の肩にかかっている。老人中心の生活に追われる日々がもう何年も続いていて、シャイは働くこともできず、遠出も控えている。

心身ともに疲れ果てて、実年齢よりもずっと老けて見える。

慌ただしい朝の時間を乗り切って部屋に戻ると、大便は便器でやりなさいと父に告げる。うんこしないと頭を横に振ってみせる父だったが、娘が背中を向けるや否や、またうんこをズボンに漏らした。

認知症にかかっていても実の父親だ。父を殴るわけにもいかず、シャイはひたすら自分の頬を平手打ちした。そして、とうとう切れてしまった。「着替えたばかりなのに、さっき汚れたものもまだ洗っていないのに、また汚しちゃうんだから。うんこの山に埋もれて抜け出せない。そのうちこんな生活に追い詰められて死んじゃうわ。」

物音を聞いたシャイの娘が外から駆けつけてきて母の涙を拭ってやった。

「お母さんが爺さんのようになってら、殺して。こんな惨めな生き方はしたくないわ。」かんかんになっている最中、つい娘に吐き捨てた。

夜は、夜中零時になってもなかなか寝ようとせず、ドアを叩くなどして騒ぐ父を落ち着かせて寝かせたら夜明けになっていた。そして、つかの間の眠りの後、彼女を待っているのはうんこまみれになっている部屋。

老人の症状は日が経つにつれて進行し、シャイの負担は増大する一方だ。ボケ状況が募り、ますます手のかかる介護に心が折れそうだという。

「死にたいと何度思ったことか。だが、肩にかかっている責任があるから踏みとどまった。」

腹が立ってもほっとくわけにはいかず、父のおしり周辺の汚れを取って着替えさせてからまた後片付けする。年の瀬が近づいてきているというのに、新年を迎える気持ちにもなれない。家中を排泄物まみれにならないようにするのが精いっぱい。このような生活がいつまで続くのか。息苦しい現状に囚われて抜け出せない。目の前が真っ暗で先が見えない。

「自力で身の回りのことができない長生きは、子供にとって先の見えない災難である。」

胸に刺さる言葉だ。

子供にとって親は心の拠り所そのものだ。かけがえのない存在であり、親には生きていてほしいと思うに決まっている。

しかし、身体の機能低下に加えて、知的障害もある老人の長きにわたる介護、二三年ぐらいは大丈夫だろう。五六年もなんとか続けられるかもしれない。しかし、果てしなく長い、ゴールの見えない道を歩み続けるのは容易ではないし、そこから来る辛さと苦しみは想像するに余りある。いくら老人がわがままで理不尽であろうが諦めるわけにはいかないし、家族の苦労を分かってくれなくても、寛容の精神を持って当たらななければならない。心の耐性が問われる。

2022年、81歳の男が79歳の妻を海に突き落として溺れ死なせた事件があった。男の妻は40年前に突然脳梗塞を引き起こし、半身不随になり、それからは日々の生活のあらゆる場面で支援が必要になった。

息子は二人とも世帯持ちで、迷惑をかけまいと、男は一人で妻を介護してきた。

「苦しすぎる。生きたくない。殺して。」妻は何度も夫に言った。そのたびに男は、ちゃんと生きて、余計なことは考えるなと妻を宥めた。

しかし、だんだん手に負えなくなり、限界を感じた。年を取るにつれ、妻を車いすから抱えることすらままならなくなった。息子たちには迷惑をかけたくない。周りから養護施設に預けることを勧められたが、半身不随になった老人が施設で適切な介護を受けられるとは思えないし、常に満員状態で費用も高いから、抵抗があったという。

そして、とうとう極端な行動に走ってしまった。介護施設に預けるぐらいなら殺してやった方がましだと思ったのだ。最初は縄で妻の首を絞めて殺そうとしたが、妻を苦しめずに一気に死なせるほどの体力を持ち合わせていないことに気づき、途中で止めた。

事件当日、81歳の老人は妻を連れて港の周りをぐるぐると回って夕暮れが近づくとやっと決心がついたのか、何十年も共にしてきた妻を海に突き落とした。叫び声とともに海に落ちる妻を最後まで見届けてから、老人は家に戻り、息子に電話した。「母さんを海に突き落とした。」後ほどの警察の取り調べに向かって老人は、「40年も介護して疲れた」と供述したそうだ。

その日までの40年間、老人は毎朝五時に起きて、食事の支度をし、洗濯や掃除と言った家事全般をこなし、妻のリハビリに付き合ってきた。二時間ごとにおむつを交換し、妻を寝返りさせる......40年間まとまった時間でぐっすり眠れた日がなかったという。

「介護殺人」と呼ばれるこのような事件で、「加害者」が殺したのは、自分が何年もの間心を尽くして介護してきた身内の人だ。決して根っからの悪人ではない。ただ、長きにわたる介護に疲れ果てて絶望のあまり極端に走ってしまったのだ。自分が先にこの世を去っていったら、取り残された相手のことが心配だからということもありうる。

4年でもなく40年間も一人で介護してきて、人生の半分を妻の介護に費やしてしまっている。並大抵の覚悟ではできない。その間の苦しみと絶望感は計り知れないもので、追い詰められて精神的に病んでしまっていてもおかしくない。ただ、何もかも一人で背負い込まないで、もっと早い段階で息子や周りの人たちと話し合って解決策を探っていれば、本人ももっと余裕のある人生を送ることができたかもしれない。

高齢化が加速している中、「高齢者が高齢者を介護する」現象はますます普遍的になり、そこから生まれる疲弊、不安、苦痛は、介護する側とされる側、どっちをも苦しませる。

訪問介護を利用するか施設に入ればいいじゃないかと思う人もいるだろうが、そう簡単な話ではない。

まず、大概の老人は自宅で老後を過ごしたがる。それに、身体機能障碍の老人が施設で適切なケアを受けられるかというとそうとも限らないし、費用も高い。

知り合いの中に、何年も寝たきり状態になっている父を持つ人がいる。自力で生活管理ができないうえに、ボケ状態になっていて、最初は家族と相談して、訪問介護を利用ことにした。しかし、ヘルパーさんを五六人ほど替えてみたものの、誰一人満足に介護してくれなかったという。仕事が適当で、父にご飯を食べさせなかったり、性格が悪くて、ちょっと気に食わないと怒鳴ったり、不器用でそもそも介護職が務まらなかったりして、仕方ないから、施設に入居させることにした。

そして、いくつかの施設を比較検討したうえで、よさそうな所を選び、父を入居させた。しかし、状況は芳しくなかった。父は元々胃の調子が悪く、口にできるものが限られているが、施設での食事は統一した献立給食となっており、個人の好みや状態に合わせるわけもなかった。更に、排泄の頻度を控えるために、食事の量が抑えられていて、食べ足りているかどうかも分かったもんじゃない。

施設は常に人手が足りない状態にある。そのため、呼び出しベルを鳴らしても職員がすぐ駆けつけない場合が多いらしくて、おむつに排泄してしまうことがよくある。部屋の中は年中異臭が漂っていて、職員は老人がズボンに漏らすことを防ぐために、トイレに行きくない時も、便器に座らせておく。

ある日、知り合いが施設を訪問したら、父が下半身を裸にしたまま便器に座っていて、しかもその状態がかなり続いていたらしく、足が冷え切っていた。トイレの前を人が行き来しているにもかかわらず、誰も父を構ってくれなかったと。心細そうに職員を待っている父を見て、それが多分父の日常なんだろうと思うと心が痛み、悲しくてたまらなかったという。

よくよく考えたら月々の施設の利用費用は知り合いの給料をも上回っていて、代金を払ってまで父をそんなひどい目に遭わせるぐらいなら家で介護した方がいいと思い、彼女は仕事を辞めて父の介護に専念した。食事や排泄の介助をし、洗濯などの後片付けに明け暮れる日々。老人は夜が更けると返って目が冴えるらしく、夜中に大騒ぎをしたり暴れたりする。その対応に追われて一晩中眠れず、心が折れそうだが、他にいい方法が見つからないという。

昔はどこの家庭にも多くの兄弟姉妹がいて、世帯分離しても近居することが多く、老人介護は子供が順番で面倒を見れば済む話だからそれぞれの家計への影響も少ない。それに引き換え、現代では一人や二人っ子が当たり前で、離れて暮らしていて、しかも各々が仕事を持っているし、働く時間が固定時間制になっているのが多い。家に介護の必要な老人がいれば確かに困る。自分の人生や仕事も大事だけど、親の命を見捨てるような真似もできない。どっちも捨てがたい。

単に「親孝行」という倫理道徳が問われる問題ではない。大概の人はまず罪悪感に耐えられない。親のどちらかが健康でいて片方がもう片方を介護する、あるいは運よく信頼できる訪問介護が見つかるならまだいい。じゃないと仕事を辞めて介護に専念するしかない。現に、多くの中年の人たちが生活に追われつつ体の不自由な親の面倒を見ている。

認知症は年齢を重ねるに連れて誰もがなりうる病気だそうだ。認知症に関しては、ニュースや他人から聞きかじった程度でしか知らない。物忘れが多く、新しいことを覚えられなくなり、迷子になったりする。食事や排泄などの身の回りのことにおいては手助けが必要で、人格が変わって暴言を吐いたり暴力を振るったりすることもあるらしい。便を認識できず食べ物と勘違いして口に運んだり、大切なものだと思い込んで包んで引き出しにしまうなどの行動も見られるそうだ。

自分なりにネットで検索もしてみた。なるほどと思うところがある一方で、疑問も湧いた。認知症の人は相手の言葉を理解することができるのだろうか、思考能力はあるのか、生き続けたいという意欲は?不安や怒りなどの感情はあるそうだが、喜びや幸せの気持ちは感じ取れるのか。

実際にかかってみないと分らないだろうが、身体機能障害のみならず、やがて症状が進んで自分が誰で何をしているのか分からなくなり、口に運ばれているのが食べものなのか便なのかも判断できない。何かをやりたいという意欲もなければ、幸福を味わえることさえできなくなる。そうすると、ただ命を伸ばすだけの延命でしかないはずだ。そんな状態になってまで本人は生き延びたいと思うものなのか?家族や周りの人はそれを望むだろうか?

「嫌われる勇気」の本を読んだことがある。人の価値について、誰かの役に立ててこそ、自らの価値を実感できると哲人は言っていた。それに対して、「生まれて間もない赤ん坊や介護なしでは生きていけない寝たきりになった老人や病人たちは、誰かの役に立っているとは思えないが、生きる価値すらないことになるのか」と疑問を呈する青年に哲人はこう言った。何をしたかではなく、「ここに存在している」というだけですでに他人の役に立っていて、価値があるのだと。ただ生きていただけで嬉しい、今日の命が繋がってくれただけで嬉しく感じるはずだと。

しかし、本当にそうなのか。

認知症になると、不安や怒りを感じるようになり、思い込みから被害妄想を生じることもあるそうだ。周りは常にサポートを工夫せねばならない。介護する側には優しさや寛大な心が求められる。しかし、言うは易し行うは難しで、言葉では何とでも言える。果たして何人がやってのけるのか。ついカッとなって怒鳴ったり冷たく当たったりする人の気持ちも分からなくもない。日々の介護に心身ともに疲弊して、患者の感情まで汲み取る余裕がないからであろう。

身体は疲れ果て、神経を尖らせて腫れ物に触るような扱いをしなければならない日々。完全に介護中心の生活になってしまい、自分の生活は維持できなくなった。そんな生活を強いられてなお、相手の存在を嬉しく思い、生きているだけで感謝できるだろうか。そもそも本人がそんな尊厳なき延命を望むとはとても思えない。

高齢化に伴う認知症患者数の増加は重大な社会課題の一つともいわれている。将来、私たちが老いに直面した時には、高齢化はもっと進んでおり、それに伴う問題はさらに大きく、より困難な状況が待ち受けているだろう。

しかし、ただ指を加えてその日が訪れることを待つのではなく、今からやれることをやる。

快適な老後生活に、まず健康な身体づくりは欠かせない。健康あっての人生だからな。何より認知症の予防にも繋がる。運動にいそしみ、栄養が偏らないようバランスの取れた食事に心がけ、本を読んだり学習を続けることで脳に活力を与える。

当然、老後のための貯金も大事だ。ただ、お金にガツガツし過ぎて無理して身体を壊してしまったら元も子もない。人生最後まで、自分らしく、尊厳を保って生きたいじゃない。